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3月16日(日) オーバー・ザ・レインボー/OVER THE RAINBOW - ロンドン・レインボー・シアター 

ササフラス/SASSAFRAS
ハットフィールド・アンド・ザ・ノース/HATFIELD and THE NORTH
リチャード.アンド・リンダ トムプスン/RICHARD and LINDA THOMPSON
ジョン・マーティン/JOHN MARTIN
プロコル・ハルム/PROCOL HARUM
フランキー・ミラー/FRANKIE MILLER; BAND
ケヴィン・コイン・バンド/KEVIN COYNE BAND

over the rainbow 22-mar MM1
レインボウ・シアター(MELODY MAKER誌)

16-mar OVER THE RAINBOW1

 レインボウ・シアターがとうとう閉鎖される事になった。この劇場はロンドンの中心からは少し離れているとはいえ地下鉄で行ける範囲だし、キャパシティも2700席で中堅ロック・バンドがよくコンサートを行っていた。ここでのライヴ・アルバムも何枚かリリースされているはずだ。しかし私が気に入っている理由は他にあった。劇場内の内装である。
 地下鉄フィンズバリィ・パーク駅の直ぐ裏に位置しているこの劇場は、アイヴォリーのタイルに赤のレインボウ・ロゴの看板を掲げた、見た目はごく普通の劇場なのだが、中に入るとアールデコ調の装飾があちこちに施されている。舞台横のバルコニー付近から天井にかけてはアラビアのオアシス風景を模した塔やアーチの付いた小屋、ヤシの木等で飾られていて、また真上の天井部には、小さなランプがランダムに配置されており、会場の電気が消されるとアラビア風の家やヤシの木がシルエットになり、天井を見上げるとばらばらに輝く小さな照明燈がまるで夜空の星のごとく、キャラヴァンで砂漠を旅している様なロマンティックな雰囲気になってしまうのだ。ただ不満なのは、やたら寒いのと、前の椅子との縦幅が狭かったこと。日本の映画館の様に身体を横にしてカニ歩きで自分の席まで行かなければならないので、身体の大きなガイジンさん達は随分窮屈だろうと思っていたが、それにしてももうこの劇場に来られないと思うと淋しくなる。

over the rainbow 29-nov1
レインボウ・シアター内部(SOUND誌)

 さて、この日はサマータイムに切り替わる日。日本での経験が無いものだからそんな事などすっかり忘れていて友達に言われてからすぐ時計を見たらもう開演の時間だった!
 慌てて劇場へ駆けつけ、薄暗い中席を探し、座った途端、ステイジに子供が現れ「次はハットフィールド・アンド・ザ・ノース」と言った。(この子供は、ドラムスのパイルの義理の息子だそうだ。)やはりオープニングの「ササフラス」は終わった後だった。
 憧れのシンクレアさんはどれかなぁ?なんて見ていたら、金髪をおでこの上で切りそろえたお兄さんが客席の方を向いてニッとしたかと思ったら片方ずつぴょこんと足を上げ靴を脱いだ。途端、会場からぱらぱらと拍手。「こいつや!」舞台は照明が抑えられていて薄暗く、ステュワートはほとんど後ろを向いてプレイしているし、全体的によく見えない。曲の紹介はシンクレアの受け持ちのようで「ロタース・クラブ」から2~3曲、1時間程演奏してくれたのだが、この手のサウンドに飢えていた私としては思わずスタンディング・オベイションをしてしまった。

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Dave Stewart/HATFIELD AND THE NORTH

 30分程休憩が入った後、リチャード・アンド・リンダ トムプソンの登場。2人共フォーク/トラッド畑の人でリチャードは元フェアポート・コンヴェンションのメムバーだが、その視点がちょっとアグレッシヴと云うか他のメムバーと違っていて、結局ソロで活動し始めていた。一方リンダの方は、サンディ・デニー等のバックコーラスをしていた人で、この頃に2人でデュオを組み、そのまま結婚したはずだ。ステイジはリチャードが座ってギターを弾きリンダが歌うというものだが、ギタリストとしての評価が高いリチャードのプレイに負けぬ程力強くそれでいて澄んだヴォーカルを聴かせてくれたリンダの凛とした姿が印象的だった。
 次がジョン・マーティン。この人も基本はフォークなのだが、それに留まらずブルーズ/ロック/ジャズと幅広く取り入れユニークなサウンドを創り上げているギタリストだ。この日もダブルベイスにドラムスを従え、エコーボックス等の様々なエフェクトを駆使したギター・プレイで独自のサウンドを聴かせてくれた。アクースティック・ギターに電気を通して増幅しそれを足で調整しながらの演奏は実に独創的で一聴の価値有りだ。
 続いて出てきたのがプロコル・ハルム。大ヒット曲「蒼い影」が余りにも有名だが、ゲイリー・ブルッカーのグランド・ピアノを中心にメロディアスなロック/ポップ・ミュージックを聴かせてくれた。「グランド・ホテル」の曲の途中に「オーヴァ・ザ・レインボウ」のフレーズを入れて演奏したので大いにオーディエンスに受けていた。ま、誰かはやるだろうと思っていたけどね。そして舞台のそでから飛び出して来たのが山高帽を被ったフランキィ・ミラー。ハルムをバックにブルーズ~R&Bを歌いだし、客を乗せまくっていた。ブルーアイド・ソウルはイギリスでは根強い人気があり、彼もその新騎手として話題を集め、多くのファンを獲得していた時期だった。
 この次にロック/ブルーズのケヴィン・コイン・バンドが出演するのだが、時計はもう11時を回っていて、終電を考えれば見ている時間は無かった。
 劇場の出口付近でレインボウ・ロゴの入ったT-シャツを来た女の子がレインボウのカン・バッジを配っていた。これはさっきまで10ペンスで売っていた物だがもう最後なので売れ残りをプレゼントしているのだろう。劇場から50m程先で照明おじさんが寒い中スポットライトでオーヴァー・ザ・レインボウの看板を照らしていた。もう、この劇場に来る事は無いだろうと思うととても淋しく悲しい思いを胸に抱いて家路に着いた。
 この「オーヴァー・ザ・レインボウ」のコンサートは後日、5万枚限定でレコード発売されたので耳にした方も居ると思うが、この約2年後、レインボウ・シアターは再開された。がそれも一時的なもので、しばらくするとまた閉鎖されてしまった。
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3月9日(日) キャラヴァン/CARAVAN - ロンドン/レインボウ・シアター 

デイヴ・シンクレア/Dave Sinclair     (kybds.
ジェフリィ・リチャードスン/Geoff Richardson(vla., fl., gtr.
パイ・ヘイスティングス/Pye Hastings     (vo., gtr.
リチャード・コーフラン/Richard Coughlan (drms.,percussion
マイク・ウエッジウッド/Mike Wedgwood  (bs., vo., conga

_9 3 caravan1のコピー

9mar caravan programmeのコピー
会場で売られていたプログラム

 前座のルネサンスが終わってメインのキャラヴァンが始まるまでの間にレインボウ・シアターの舞台中央スクリーンに BTMマネージメントの宣伝スチールが映写されていた。カーヴド・エア~ルネサンス~キャラヴァン~クライマックス・ブルース・バンド~アル・ステュワート~ウィシュボン・アッシュetc.etc. ルネサンスとキャラヴァンが映ると会場からは拍手が起こっていた。ま、当然だろう。 この夜のギグは10時から11時20分頃まで、この年の夏にリリースされた「カニング・スタンツ」から2曲、一つ前の「夜ごと太る女のために」から2曲、「ウォータールー・リリー」から1曲、そして外せない名曲「リチャードのために」と、今となってはキャラヴァンを代表する曲ばかりでセットされていたので悪かろうはずが無い。

 キャラヴァンは見目の良いスター・ミュージシャン
が居るわけでもないし、衣装で見せるバンドでもないが、強いて云えばヴァィオラのジェフリィ・リチャードスンが紺地にキンキララメ入りのベストに黄色のパンタロン・スーツでちょっと目立っていたかな…?彼は子供の頃少しヴァイオリンを習った程度で、ヴァィオラやその他の楽器は独学で勉強したそうだ。曲やメムバー紹介は全部彼が話し、他のメムバーは黙々とプレイしていた。ベイスのウェッジウッドは「カーヴド・エア」からキャラヴァンに入った人で、ベイスのみならずコンガやヴォーカル、作曲までしているのでキャラヴァンに於ける貢献度は高い。デイヴ・シンクレアはやはり人気が有り、「彼が作曲した~」というだけで会場からは拍手が聞こえた。「カニング・スタンツ」から20分程の大作「ザ・ダブ・ソング・コンチェルト」が演奏されたのだが、アルバムと同じ様にテープを多用しつつライヴでもよどみなくプレイ出来るのがこのバンドの強みだ。レコードではセッション・プレイヤーとかオーケストラを使ってストリングスのパートを録音しているが、ライブではテープとリチャードスンのヴァィオラが全面的にフィーチャーされてそれぞれの曲を盛り上げていた。実際キャラヴァンは39人のオーケストラを従えて演奏した「キャラヴァン&ニュー・シンフォニア」というライブ・アルバムが有り、バンドとオーケストラが一体となった演奏をライヴでも問題なくやってのけられる実力をまざまざと見せつけてそのサウンドを十二分に堪能させてくれたものだ。この日も「リチャードのために」そして「瞳の中の愛」と20分程のドラマティックな大作が次々と演奏されオーディエンスを感動させていた。「リチャードのために」のイントロが始まった途端、会場から拍手が起こり、大部分のオーディエンスがこの曲を目当てに聴きに来ていたのがよく分かった。という私もその一人でした。アンコールは「夜ごと太る女のために」から「ホーダウン」がプレイされたのだが、この曲の途中にリチャードスンがオーディエンスに手拍子講習会を始めた。「さあ皆さん、7/8拍子ですよ。ワン、トゥー、ワン、トゥー、ワントゥスリィ、ワン、トゥー、ワン、トゥー、ワントゥスリィ。」シンクレアもキーボード群から出てきて他のメムバー等と一緒にパーカッションでリズムを叩き出し、オーディエンスが手拍子に慣れてくると、、それに乗せてメムバー紹介が始まり喝さいの中コンサートは終わった。この夜も終電は出てしまった後だった…
 この後バンドは、4月~5月にかけてヨーロッパ・コンサートに出掛けていた。これとは別に、5月の最終土曜日にハイド・パークでフリーコンサートが行われたのだが、発表されていたメイン・アクトはドン・マクリーン他フォーク系のバンドばかりで、私はその夜、リック・ウェイクマンのコンサートでウエムブリィまで出掛けなければならなかったし、ハイド・パークには行かなかった。ところが、友達によると、夕方4時頃公園を通りかかったら「キャラヴァン!」というアナウンスが聞こえたので行ってみると、本当にキャラヴァンが出てきて1時間弱演奏したそうだ。しかしオーディエンスはやはりフォーク・ファンが多かった様でそれ程ウケてはいなかったらしい。出演バンド・リストにキャラヴァンの名前は入って無かったのに急遽決まったのだろうか…それにしてもフリーでキャラヴァンが見られたのか…くやしい!
 この年の夏には、ロンドン郊外で毎年行われるレディング・フェスティヴァルに出演。しかしこの時には既にデイヴ・シンクレアは「ハットフィールド・アンド・ザ・ノース」を辞めたリチャード・シンクレアと共に、ニュー・バンド「シンクレア・アンド・ザ・サウス」結成の為キャラヴァンを脱けていて、彼の代わりに後に「キャメル」のキーボード・プレイヤーとなるヤン・シャルハースが参加していた。
 この後もキャラヴァンはメムバーチェンジを繰り返しながら活動していたのだが、83年には解散。しかし90年、TV出演をきっかけに再び演奏を始め、その間にも旧アルバムが次々と再発売され2002年1月にはヘイスティングス、デイヴ・シンクレア、クーフラン、リチャードスン他3人のメムバーでとうとう来日してしまった。

 今やカンタベリィ・ミュージック・シーンというジャンルが出来てしまい、その中心に位置するキャラヴァンだが、これからも益々ファンは増えそうだ。
 ベイシストのウェッジウッドはオランダ人女性と結婚し現在オランダに住んでいて、ソロ・アルバム製作とレコーディング・スタジオ建設で忙しい日々を送っているそうだ。

3月9日(日) ルネッサンス/RENAISSANCE ロンドン-レインボウ・シアター 

アニー・ハズラム/ANNIE HASLAM (vo.
マイケル・ダンフォード/MICK DUNFORD (gtr.
ジョン・キャンプ/JON CAMP (bs.,gtr.,vo.
テリー・サリヴァン/TERRY SULLIVAN (drms.
ジョン・タウト/JOHN TOUT  (kybds.

rainbowのコピー
レインボウ・シアター(SOUNDS誌 1976年)
3.9 renaissance
会場で売られていたプログラム

 
レインボウ・シアターで行われたキャラヴァンのコンサートでスペシャル・ゲスト、つまり前座にルネサンスが付いた。すごい。劇場の照明が消されしばらくグレゴリア聖歌のキリエが流れる中メムバーが出てきた。ライトが点くと同時に「CAN YOU UNDERSTAND」のクラシカルなピアノのイントロが始まりルネサンスの音楽世界へ否が応でも引き込まれる。いいスタートだ。この日は「燃ゆる灰」「運命のカード」からそれぞれ2曲と、この年の秋に発売された「シェラザード夜話」の中から1曲、アンコールが「プロローグ」というセットで1時間程演奏してくれた。ま、前座なのでこれで持ち時間一杯なのだろう。

 ピアノが一つの売り物だけにちゃんと茶色のグランド・ピアノがデ~ンと置いてあり他ハモンドやシンセサイザー等に囲まれてタウトがクラシックのフレーズを曲の端々に滑り込ませながら演奏している。その前で両手を胸の前で組みオペラ歌手の様に朗々と歌っているのが白に紺のVラインが入ったロングドレスを着たハズラム。ひたすらプレイに専念しているのがドラムスのサリヴァンとアクースティック・ギターのダンフォード。曲の紹介などは全部ベイスのキャンプがしていた。曲の構成上余りイムプロヴァイゼィションが入れられないのでほとんどアルバムと同じ演奏。しかしライヴの迫力はビンビンと迫ってくるので聴き終わった後の満足感はしっかりと残る。照明も、ミラー・ボールの両側からライトを当てると右側には太陽の、左側には月のシルエットが、又はクルクル回すと星空が後ろのスクリーンに映る様に工夫されてあり、見ていてもとてもきれいだ。アンコールでハズラムが真っ赤なロングドレスに着替えて来たのだが「靴履く暇が無かったのぉ」と言いながらドレスの裾を上げ赤のストッキングだけの足を見せているのがなんとも可愛かった。

RENAISSANCEのコピー

RENAISSANCE 2のコピー
 
 会場では、それぞれのロゴが入ったTシャツを売っていたが、やはりトリのキャラヴァンのロゴの方が若干高かったのは御愛嬌。

序章 ~ To the memory of Peter Bardens 

 2002年1月22日、元キャメルのピーター・バーデンスが亡くなった。このニュースを聞いた時、「あぁ、死んじゃったんだ。」となぜか淡々とした気持ちだったのだが、昔作ったキャメルのファイルを引っ張り出してきてみると、バーデンスがくれた絵はがきやカードが何枚も出てきて、25年前、キャメルのコンサートを見る為にイギリス中を走り回っていたあの頃を思い出してしまった。
 そう、1975年、私はイギリスに滞在していて毎日のようにいろんなバンドのライブを見に行っていたのだ。丁度プログレ・バンドが出揃った頃で、皆それぞれ波に乗った演奏を繰り広げていた。
 ここ2~3年、既におじさんと化した元プログレ・バンドのメンバー等が再結成してよく来日している。が、私はほとんど見に行っていない。当時とは違うメンバーで昔の曲を演奏されてもやっぱり違うのだ。
 音楽には、「旬」がある。
 つまり、その曲を演奏するベストのメムバー、ベストの時期があるのだ。曲によってそれはオリジナルメムバーでの演奏であり、あるいは、数年経ってから他のバンドで演奏されたものであるかもしれない。しかし、「この曲はこのメムバーでの演奏が一番、その曲は何年にプレイされた時が一番いい演奏!」という時期が確かに在るのだ。そして、ブリティッシュ・プログレッシヴ・バンドのそれは1975年に集中していた。少なくとも私にはそう思えた。その「旬」の時期に私はロンドンに居てその「旬」の演奏を毎週の如く耳にしていたのだ。
 当時はハロルド・ウイルスン首相率いる労働党政権下で、I R Aがことある事にロンドンのあちこちに爆弾を仕掛けていた。
 この頃、日本から渡航する際の持ち出し金額の上限は確か2,0000ドルと決められていたと思う。当時のカレンシィで1ポンド約700円程度だったと記憶している。そしてイギリスに滞在する方法としては、観光で入国するのが当時でも一般的であったが(この場合、問題がなければ6カ月の滞在許可を貰える)他に、オウ・ペア制度といって、個人の家庭に滞在し、語学学校へ通いながらその家の手伝いをし、少々のお小遣いを貰うという制度があった。日本人の女性の多くがこの制度を利用して渡英したのだが、余りにもトラブルが多く日本人には禁止されてしまった。つまり、オウ・ペアを雇い入れる経済的余裕のある家庭は限られていて、彼等の生活環境、金銭感覚、宗教観がそれまで日本でぬくぬくと育ってきた女の子達にとっては余りにも違いすぎ、そのギャップに耐えきれずノイローゼになり大使館へ駆け込むという事件が多発したのだ。もちろん、このオウ・ペア制度を活用し、イギリス滞在を大いに堪能した日本人女性も沢山いたし、欧米諸国他からオウ・ペアとして渡英した女の子達はたいてい、めいっぱいイギリスでの生活をエンジョイして帰国していた。つまりこれは今でも言える事なのだが、渡航先の国の内情を十分に調べないまま夢見ごこちで出国してしまい、現地で厳しい現実にぶち当たってから泣きを見る日本人がいかに多かったか!そして自分達の情報不足を棚に上げ、トラブルの責任を他に押しつける日本人旅行者が現在に至るまで少しも減らないのはちょっと情けない気がする。
 と云う私も当時は無知な日本人旅行者の一人で、滞英中、回りの友達に大いに迷惑を掛けてしまった。今思うと赤面物である。済みません。
 さて、私の場合、とにかく「半年~一年間、イギリスに住んでみたかった。」つまり、ブリティッシュ・ロックの歌詞にある日常を体験してみたかったのだ。
 キンクスは歌う「みんな税務署に持っていかれちまった。オレに残されたのは夏の午後の気だるい日差しだけ」気だるい日差し?ふ~ん、と何となく分かった気でいたが…イギリスでは冬が長く夜が空けるのは8時頃、日が暮れるのが早ければ3時頃にはもう暗くなってしまう。それが夏の7月ともなると空が白むのは午前3~4時頃、暗くなるのが夜中の11時過ぎでその間ず~っと柔らかい日差しが注いでいるのだ。しかも当時は、商店もデパートも夕方5時には閉まってしまいパブが開くのは6時から。これが日曜日ともなると総ての店が閉まってしまうので何もする事が無い。近くの公園にでも行って日なたぼっこをするほか無いのだ。ぽかぽか日差しを浴びながらの日なたぼっこは無一文でも気持ちがいい。あぁ天国!というのがイギリスで暮らしていれば実感できる。だから「サニー・アフタヌーン」の歌詞は悲壮でも曲はのんびりしていて何となく明るいのだ。それに歌詞に出てくる様々な固有名詞が有名チェーンのスーパーの名前だったり、テレビで流行っているCMのパロディであったり、とにかく行って解った事、行かなければ解らなかった事が山ほどあった。
 それはさておき、私はイギリスで働く気は全く無かったので、日本で働き貯金したお金を持ち出し可能金額いっぱいまで現金とT/Cで持って行き、後は足りなくなった時点で送金して貰う様母に言付けて渡英した。6カ月の滞在許可は問題なく貰えたが1年間滞在するとなるとビザが必要になってくる。で、一番簡単な方法-語学学校へ入学して学生ビザを取る事にした。
 イギリスには、成人を対象とした学校がいっぱい在って私はその中の公立の英語学校に入学する事にした。週5日、1日3時間の授業で、授業料は1学期(約3カ月)約21ポンド。他に私立の語学学校もいっぱいあるのだが、授業料が公立の数倍はした。
 入学するにはまずクラス分けのテストを受けなければならない。が、日本人はとにかく中、高と学校で英語を勉強しているので文法は出来る。そして自動的に中級クラスへ振り分けられるのだが…話せない!会話が出来なければどうしようも無いので私は初級クラスに編入して貰った。クラスには、フランス、スペイン、イタリア、ポーランド、イズラエル、アラブ諸国からと、様々な国籍の人々が在籍していたが、中にはアルファベットが書けなくて補修を受ける人もいた。
 さて住居だが、これが一番大変だった。飛行機を手配してくれた旅行会社に下宿を紹介してもらったのだが、そこはロンドンでも移民が多く住む地域で、割り当てられた部屋の鍵も暖房器具も壊れていて、家主のパキスタン人に文句を言ってもわめきちらすばかり。困り果てたあげく、私が渡英する数カ月前にこちらに来ていた友人が借りていた部屋に強引に転がり込んでしまった。結局同じ屋敷内で同居人を探していた日本人女性と部屋をシェアする事になって一段落したのだが、これは実に幸運だった。

london flat
1975年当時住んでいたフラット 
2006年 野田氏撮影


 場所はスイス・コティッジという高級住宅地の一角で、19世紀に建てられた古い屋敷をひと部屋ごとに貸し出しているフラットで、私達の部屋は1 0畳ぐらいの広さでベッドが2台と洗面台、電気コンロとオーブンの調理器具、電気ストーブが備え付けられていた。これらは皆コインを投入すると動くものである。週2回の部屋の掃除とベッドシーツの取り替えが付いているが、当時としてはその他の物価と比べ部屋代は高かった。
 家から歩いて数分の所にインド人経営の雑貨店、もう少し駅前まで行くと大手チェーンのスーパー、デパート、パブとなんでも揃っており、生活するには全く不自由は感じなかった。
 1975年、イギリスは貧しかったが皆、まだのんびりと暮らしていた。
 世界へ目を向けると、サイゴン陥落後4月にベトナム戦争が集結し、8月には、日本赤軍がクアラルンプールで大使館員を人質に取り「超法規的措置」で仲間5人を釈放させている。
 日本では、イギリスのエリザベス女王が来日し大歓迎を受けていたようだ。ちなみに私に来た日本からの手紙は「歌舞伎俳優の坂東三津五郎がふぐ中毒で亡くなった」というニュースで盛り上がっていた。
 これで大体のイギリスにおいての私個人の当時の生活環境は推測出来ると思う。
 さあ、いよいよ本題のコンサート状況に話しを移す事にしよう。

 ライブ情報を得るには音楽誌等を利用した。
私が常に買っていたのは、「メロディ・メイカー(MM)」、「ニュー・ミュージカル・イクスプレス(NME)」、「サウンズ」の3誌。この中でMM誌が一番業界誌に近く、バンドがメムバー募集の広告を出したり、コンサート・ホールやライヴ・ハウス等が広告を出すのもこの新聞が主だ。購買層は音楽関係者が多いので内容も専門的な記事が多く書き方も英語初心者の私は所々辞書が要る。編集もどちらかと言えば保守的でエディターもオックスブリッジ卒業者が多かったように記憶している。片やNMEの読者は労働党支持の左派大学生が多く、編集者もケムブリッジ大出が何人か居て、記事もちょっとマニアックで写真等もアーティスティックな物が多く載せられていた。「サウンズ」はティーン・エイジャーを対象としているので英語も読みやすく記事も分かりやすいので重宝した。この他、「レコード・ミラー」、「ディスク」等の音楽誌があるがこれ等はロウティーン向けでアイドル・タレントのカラー写真を載せて女の子達の購買欲を煽っていた。一般向けでは「タイム・アウト」。これは日本でもお馴染で音楽に限らずあらゆるイベント、エンターテインメント全般を扱っている情報誌である。

Melody Maker
NME
SOUNDS

 これ等の雑誌で前売り情報を得、そのコンサートが行われる劇場のボックス・オフィスで前売りを買うのが一番いい席を得られる方法だが、ゼッペリン等の超人気ティケットとなると、少々手数料は取られるが、町のプレイガイドへ行けば取りあえずは入手出きる。が、75年の後半に入った頃からソールド・アウトのコンサートが増え、劇場に行っても当日券さえ発売されないギグが増えたのも確かだ。
 さ、いよいよコンサートへ行こう!

maquee memberscard
ライヴ・クラブ マーキーの会員証




ごあいさつ 

 「プログレ日記」は、1975年ロンドン滞在中に見たプログレ・バンドのライブを、キャメル中心に書き集めたレヴュー集です。1975年は、今考えてみるとプログレッシヴ・ロックの一つの頂点を極めた特異な年で、多くのプログレ・バンドがほとばしる情熱と若さで彼らの音楽を一心にプレイしていた時代です。ジェネシス、キャラヴァン、ジェントル・ジャイアント、バンコ、キャメルetc.etc......
5年程前になりますが、「LONDON 1975 プログレ日記」という、100ページぐらいの小冊子を発行しました。
というのも2002年に元キャメルのピーター・バーデンスが亡くなり、ファンとして彼がキャメルのキーボード・プレイヤーとして輝いていた時期を書き残しておきたかったからです。発行部数も少なかったのですぐに絶版になってしまいましたが、その後、時々問い合わせなども頂いていましたので、この度、誰でも好きなときに読める様にブログに載せることに致しました。2003年発行時そのままの原稿で何も書き加えていません。情報も2003年当時のままです。若干写真は増やすつもりですが...
 奇しくも今年は1975年と同じく月日と曜日が一緒ですので、当時ライブを見たその同じ日にライブ・レヴューをアップする事にしました。1975年ロンドンでのプログレ・シーンの雰囲気を少しでも感じて頂ければ幸いです。

プログレ日記 表紙のコピー


発行日     2003年6月19日
著者       堀家 美沙子 (HORIKE misako)
編集・校正   中藤 正邦 (NAKAFUJI masakuni) / 井須 菜穂子 (ISU nahoko)
                    
                             1st March 2008
                             堀家美沙子 horike misako
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